大学入学共通テスト日本史B過去問 令和4年度本試験(解説なし)
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問題文正答率:33.33%
第1問
次の文章A・Bは,高校生の陽菜さんと大輝さんとの会話である。この文章を読み,後の問い(問1~6)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 18)
A- 陽菜
- 日本史を勉強していて気付いたんだけれど,小野妹子は「おのの/いもこ」,北条政子は「ほうじょう/まさこ」と読み,「の」があったり,なかったりするよね。これはなぜなのか知っている?
- 大輝
- 僕も同じような疑問を持ったので,先生に質問したことがあったよ。その時,姓と苗字(名字)の違いに関係する,というアドバイスをもらったんだ。そこで,次のようなメモを作成したことがあるよ。
大輝さんのメモ
- 大輝
- 姓は,やがて氏と同じものになるけど,苗字とは違うものだったんだね。北条政子の場合,平氏の一族であり,平政子が正式な名前と考えられているみたいだね。
- 陽菜
- ということは,北条政子はアだから,「の」がつかないんだね。
- 大輝
- そう,大正解。だけど,例外があるとすれば,豊臣秀吉かな。本来であれば,「とよとみの/ひでよし」というべきなんだけどなあ。ⓑ秀吉が「木下」や「羽柴」を名乗ったように,同じ人でもいろんな名前があったんだ。それに近世になると,百姓や町人たちも,苗字を持っていたようだよ。苗字帯刀の禁止というように,あくまでも公称が許されなかっただけなんだ。
- 陽菜
- へえそうなんだ。すっかり勘違いしていた……。
- 大輝
- 明治時代になると,政府はイために,平民にも苗字を名乗らせたんだ。
- 陽菜
- 明治の民法では,女性は嫁いだ家の苗字を使うように義務付けたんだね。
- 大輝
- そのとおり。その後,第二次世界大戦後に民法が改正され,結婚した夫婦の苗字はどちらかにそろえれば良くなったんだ。夫婦がどのような苗字を名乗るかは,現代でも大きな議論になっているね。
問1 空欄アイに入る文の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,中世のある武士について述べた次の文章X・Yと,その人物の姓や苗字a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 育った信濃国の地名で通称された。敵対する一族を都から追い落として朝日(旭)将軍とも呼ばれたが,従兄弟との合戦で敗死した。
- Y 姓は源氏だが,所領の地名を苗字として名乗った。室町幕府から東国支配を任されたが,将軍と対立して自害に追い込まれた。
- 平
- 源
- 新田
- 足利
問3 下線部ⓑに関連して,近世に活躍した人物の名前に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 武士の出身であり,本名を杉森信盛といったが,作家としては近松門左衛門と名乗った。
- 太郎左衛門を襲名した江川太郎左衛門英竜(号は坦庵)が,伊豆韮山に反射炉を築いた。
- 日本に漂着したイギリス人のウィリアム=アダムズは,三浦半島に領地を与えられて三浦按針と名乗り,幕府の外交・貿易顧問をつとめた。
- 陽菜
- 個人名に注目してみると,小野妹子が男性であることも面白いね。
- 大輝
- そうそう,最初は女性だとばかり思っていた。
- 陽菜
- 天皇家の名前を見てみると,「〇子」という女性名は,嵯峨天皇の時代に一般的になってくるみたいだよ。次の図には,嵯峨天皇の娘として,「正子内親王」「秀子内親王」「芳子内親王」の名前があるね。
- 大輝
- あっ,本当だ。じゃあ,小野妹子の場合はどうなるの?
- 陽菜
- 妹子の生きた飛鳥時代には,蘇我馬子や中臣鎌子(鎌足)など,「子」は男性名として使われていたんだ。女性の場合,「〇姫(媛,比売)」,「〇郎女」,「〇売(女)」が一般的だったみたいだね。
- 大輝
- この系図を見ると,ⓒ嵯峨天皇の子どもから名前のつけ方ががらりと変わってるのが分かるね。
- 陽菜
- そうなんだ。「山部」とか「大伴」は,どれも彼らの乳母の氏,養育氏族の名称なんだ。嵯峨天皇の親王になると,良い意味を持つ共通の漢字がつけられるようになる。ⓓ個人名のつけ方って時代や社会の変化と関わっているんだ。今だって,個人名には流行があるよね。大正時代から現在までの個人名については,「生まれ年別名前ベスト10」が公開されているんだって。
- 大輝
- 面白そうだね。今度,調べてみよう。
問4 下線部ⓒに関連して,嵯峨天皇の子どもの名前の特徴とその背景に関して述べた次の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 養育氏族の名称が消滅し,和風化の影響が認められる。
- 養育氏族の名称が消滅し,唐風化の影響が認められる。
- 源の姓を持ち,天皇の子どもであっても臣下となる者が現れた。
- 親王の兄弟で同じ漢字が使われ,皇位継承の順番が明確になった。
問5 下線部ⓓに関連して,大輝さんは次の表を作成した。この表から読み取れる内容に関して述べた文X・Yについて,その正誤の組合せとして最も適当なものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X アメリカ・イギリスに宣戦布告し戦場が拡大すると,勝利を祈願するような名前が優勢になる。
- Y 天皇の代替わりにともなう改元の影響もあり,新元号の一字を冠した名前が登場する。
問6 その後,陽菜さんと大輝さんは,「人名から見た日本の歴史」について意見を交わした。次の意見a~dについて,最も適当なものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 天皇は姓を持っておらず,それを臣下に与える存在であったと考えられる。
- 江戸時代以前における日本の支配階層においては,夫婦同姓が原則であったと考えられる。
- 近世の百姓・町人が基本的に苗字の公称を許されなかったのは,武士身分との差別化を図るためと考えられる。
- 明治の民法が女性に嫁ぎ先の苗字を使用させたのは,啓蒙思想の普及を図るためと考えられる。
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第2問
高校生のリツさんは,日本古代の法は,中国の法にならって編纂されたことを教わった。そこで,先生の助言を受けて,日本古代の法整備の歴史と,中国の法典をもたらした遣隋使・遣唐使の派遣について,年表にまとめて整理してみた。この年表を読んで,後の問い(問1~5)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
問1 リツさんは,年表の下線部ⓐの600年に派遣された遣隋使が,日本の文献史料には記録がなく,中国の文献史料にのみ記載されていることを知った。この下線部ⓐの遣隋使や,その前後の日本の出来事について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 リツさんは,遣隋使・遣唐使らが,隋・唐の法典をもたらしたことによって,日本古代の法が整備されたことを理解した。このことに関連して,8世紀の遣唐使(年表のX)・9世紀の遣唐使(年表のY)と,彼らが日本にもたらした文化について述べた次の文a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 唐で仏教を学んだ僧によって,真言宗が広まった。
- 遣唐使とともに来日した唐僧によって,正式な戒律が伝えられた。
- 阿弥陀如来が迎えに来る情景を描いた来迎図が盛んに作られた。
- 密教の世界を構図化し,図像として描いた両界曼荼羅が作られた。
問3 リツさんは,年表の下線部が,最初の本格的な戸籍とされていることを知った。
そこで,日本古代の戸籍や計帳について調べてみた。次の史料は,正倉院に残る古代の計帳である。この史料に関して述べた後の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- この戸で,調・庸を納めるのは5人であることが分かる。
- 計帳からは,年ごとの戸の人数の変動が分かる。
- 逃亡した奴や婢は,計帳から削除されており,解放されたと考えられる。
- 黒子の位置が記されているのは,本人を特定するためと考えられる。
問4 リツさんは,先生から,日本古代の法に規定された内容の具体例として,税に関わる条文の一部を紹介してもらった。次の文章Ⅰ~Ⅲは,それぞれ憲法十七条・養老令・延喜式のいずれかの一部である。法整備の過程を考えて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 凡そ調の絹・絁・糸・綿・布は,並びに郷土の所出に随えよ。
- 国司・国造,百姓に斂る(注1)ことなかれ。国に二の君なし,民に両の主なし。
- 凡そ諸国の調・庸の米・塩は,令条の期(注2)の後,七箇月の内に納め訖えよ。
- (注1)斂る:税をとる。
- (注2)期:期限。調・庸の納入期限は,都からの距離によって定められていた。
問5 リツさんは,年表とこれまでの学習を踏まえ,日本古代の法整備についてまとめてみた。日本古代の法整備について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
解説・コメント
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第3問
次の文章は,中世の海と人々との関わりの歴史について関心を持った高校生のひろみさんが,先生を訪ねたときの会話である。この文章を読み,後の問い(問1~5)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
- 先生
- 私たちの暮らす日本は,四方を海に囲まれています。昔の人は,海の向こうに極楽浄土を見たり,龍宮城の物語を想像したりしてきました。
- ひろみ
- 海には様々なイメージが与えられ,海と深い関わりを持つ独特の文化が育まれてきたのですね。
- 先生
- 中世になると,ⓐ各地に港町ができて,海上交通がより発達します。海上交通が発達すれば,ⓑ国内外の流通が活発になって技術革新や各地の特産物が生まれ,それらを扱う様々な職能を持つ職人が登場します。例えば,四国で生産された藍が京都へ運ばれ,染め物に使われるようになりました。
- ひろみ
- ⓒ朝鮮からは,木版印刷の大蔵経ももたらされたのですよね。印刷技術が発達して,情報の伝播は飛躍的に高まったのでしょうね。
- 先生
- よく知っていますね。このような流通を活発化させたのが,倭寇のような海をまたいで活動する人たちです。やがてはヨーロッパ人まで交流に加わることで,地球規模の海のネットワークに広がっていきます。
- ひろみ
- そうですか。倭寇は,ただの海賊だと思っていました。歴史上重要な役割を担っていたのですね。
- 先生
- そうです。さらに,戦国の争乱は列島各地で人・物・文化の移動を加速させました。鉄砲などの新しい軍事技術を普及させ,アジアやヨーロッパから出版文化がもたらされます。ただ,こうした海をめぐる動きについては,まだまだ謎が多いのです。最近,海底の発掘調査が進んでいるみたいで,今後はⓓ考古遺跡からもいろんなことが明らかになるかもしれませんね。
問1 中世の海と人々との関わりについて述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,海上交通の動向に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 毛利輝元に従う海上勢力が,大坂(石山)本願寺に兵糧を搬入した。
- 重源は東大寺再建のため,瀬戸内海を通じて周防国の材木を輸送した。
- 平忠盛は海賊鎮圧などの功績を経て,貴族としても活躍していった。
問3 下線部ⓑに関連して,室町時代の運送業者を示した次の図に関して述べた後の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 図に描かれたような運送業者は,馬の背に荷物を載せて陸路を往来し,ときには徳政を求めて蜂起した。
- Y 図に描かれたような運送業者は,近江国の大津や坂本など水陸交通の要衝を活動拠点としていた。
問4 下線部ⓒに関連して,次の史料は16世紀の朝鮮王朝内で当時の日本と朝鮮との貿易について述べられた一節である。この史料を踏まえて,当時の貿易に関して述べた後の文a~dについて,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料
日本国使,通信を以て名と為し,多く商物を齎し,銀両八万に至る。銀は宝物と雖も,民,之を衣食すべからず。実に無用たり。我国,方に綿布を以て行用(注1)し,民,皆此に頼りて生活す。民の頼る所を以て,其の無用の物に換え,利は彼に帰し,我れ其の弊を受く。甚だ不可たり。況んや倭使の銀を齎すこと,在前(注2)になき所なり。今若し貿を許さば,則ち其の利の重きを楽み,後来(注3)の齎す所,必ずや此に倍せん。
(『朝鮮王朝実録』)
- (注1)行用:行使。用いること。
- (注2)在前:以前。事前。
- (注3)後来:こののち。将来。
- 銀は日本の輸入品で,その多くは朝鮮からもたらされて,流通量が大幅に増加した。
- 綿布は日本の輸入品で,その多くは朝鮮からもたらされて,衣類などの材料として普及した。
- 朝鮮は,現在の貿易をそのまま続ければ,未来に大きな利益をもたらすと主張している。
- 朝鮮は,現在の貿易をそのまま続ければ,未来に大きな弊害を及ぼすと主張している。
問5 下線部ⓓに関連して,中世の遺跡を示した次の文X・Yと,その場所を示した後の地図上の位置a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 和人を館主とする館の跡で,越前焼と珠洲焼の大甕に入った37万枚余りの銅銭が発見された。
- Y 沖合の海底の沈没船から元軍や高麗軍が使用したてつはうや矢束,刀剣,冑のほか,陶磁器や漆製品が発見された。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第4問
次のメモは,日本史の授業を受けている高校生のユウキさんが,近世の身分と社会について調べた内容をまとめたものである。これを読んで,後の問い(問1~5)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
メモ
- 近世の支配身分の人々には,将軍や大名・旗本などの武士だけではなく,公家なども含まれている。
- 被支配身分の人々には,百姓や町人・職人以外にも様々な身分の人々が存在した。その中には,居住地や服装などで区別され,下位の身分とされた非人などもいた。
- 様々な身分の人々は,百姓・町人のⓐ村・町などのように,独自の構造を持つ集団や組織を形成していた。宗教やⓑ芸能に携わる人々も同様に集団や組織をつくることがあった。
- 非人は,江戸の場合,河岸や寺院の境内などに小屋をかけて住んだ。小屋を管理する大勢の小屋頭を4人の非人頭が統轄していた。
- 江戸の非人は,牢屋の管理,堀や川の不浄物の片付け等,組織を通じ,幕府に対して様々な役を担った。その一方で,物乞いをしたり,芸能に携わったりしていた。
- ⓒ近世後期になると,村・町などの集団・組織を通じた支配が動揺した。ⓓ都市では,組織に属さない「野非人」と呼ばれる人々も増加し,その取締りが社会問題となった。
問1 下線部ⓐに関連して,近世の村や町について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓑに関連して,近世の芸能・文化に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 浮世絵が多色刷りの木版画(錦絵)として広まり,東洲斎写楽が歌舞伎の役者絵を描いた。
- 出雲阿国(出雲の阿国)の演じた踊りが,京都で好評を博した。
- 荒々しい演技で知られる歌舞伎役者の初代市川団十郎が活躍した。
問3 ユウキさんは,下線部ⓒに関連して,支配の動揺をもたらした動きについて記した次の史料1・2を読んだ。史料1・2に関して述べた後の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料1
今般(天保七年)八月大風にて麦米高値,(中略)他国は知らず,国中一統難渋につき,露命(注1)もつなぎ難し。よって今日一千余人相談のため,石御堂(注2)に相集まり罷りあり候。十五以上六十以下の男子,取り急ぎ罷り越し,帳面に名を記すべし。もし不承知の村は,一千人の者ども押し寄せ,家々残らず打ち崩し申すべし,もし遅参の村は,真っ先に庄屋を打ち砕き候趣,申し次ぎにて言い送りける。
(『鴨の騒立』)
- (注1)露命:はかない命。
- (注2)石御堂:三河国滝脇村にある。
史料2
天明七丁未年五月(中略),こわしたる跡を見たるに,破りたる米俵,家の前に散乱し,米ここかしこに山をなす。その中にひき破りたる色々の染小袖,帳面の類,破りたる金屏風,こわしたる障子唐紙,大家なりしに内は見え透くやうに残りなく打ちこわしけり。後に聞けば,はじめは十四・五人なりしに,追々加勢して百人計りなりしとぞ。(中略)諸方の蜂起,米屋のみにあらずとも富商人は手をくだせり。
(『蛛の糸巻』)
- X 史料1によれば,一揆に加わらない村へ制裁を加えるとしている。
- Y 史料2は,百姓たちが結集して庄屋や米屋を襲撃した世直し一揆について述べている。
問4 ユウキさんは次に,下線ⓓに関連して,1836年に江戸の町奉行所が,配下の者に提出させた報告書を読んだ。次の史料3はその一部である。史料3と幕府の政策に関して述べた後の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料3
一,御当地場末(注1)の町家に住居候其日稼ぎの者ども,給続けも相成り兼ね,其上店賃(注2)等相払い候儀も致し難く,余儀なく店仕舞い無宿に成り,野非人同様物貰い致し居り候者も多分これある由。
(中略)
右の通り御座候て,御当地非人頭ども,日々(中略)狩り込み,手下に致し候(注3)ても(中略)働き方難儀につき居付き申さず,立ち出(注4),元の如く野非人に打ち交り居り候ゆえ,野非人ども多く相成り候。
(「野非人之儀ニ付風聞書」旧幕府引継書)
- (注1)場末:町はずれ。
- (注2)店賃:借家の家賃。
- (注3)狩り込み,手下に致し候:捕まえて,非人頭の配下に置くこと。
- (注4)立ち出:立ち去る。
- 史料3によれば,江戸の場末の町家には,物乞いをするその日稼ぎの人々が多数住んでいたと考えられる。
- 史料3によれば,幕府には,江戸の非人組織を通じて,無宿となった人々を捕まえ,野非人を減らそうとする意図があったと考えられる。
- 幕府はこの後,改革を行い,石川島に人足寄場を新設して,無宿人を収容した。
- 幕府はこの後,改革を行い,江戸へ流入した人々を帰郷させる人返しの法(人返し令)を出した。
問5 授業では最後に,生徒たちが話し合って,学習内容を整理した。近世の身分と社会に関して述べた文として最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第5問
アメリカ合衆国ハワイ州の高校と交流を持つ日本の高校の授業で,日本とハワイとの関係についての歴史を調べることになった。次の文章は,調べる課題や内容を設定する際のミキさんとカズさんとの会話文である。この文章を読み,後の問い(問1~4)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 12)
- ミキ
- ハワイは,19世紀初めから19世紀末まで,ハワイ王国という独立した国だったんだね。
- カズ
- 幕末に,江戸幕府とハワイ王国との間で,条約締結に向けた交渉が行われているよ。結局,条約締結前に幕府は崩壊したのだけど。
- ミキ
- 幕末とはいえ,江戸時代にも日本とハワイとの間に交流があったんだね。
- カズ
- 幕末になるにつれて,ⓐ日本と海外諸国との交流も活発になっていくよね。江戸幕府は,1866年に日本人の海外渡航を解禁しているから,これを機に,日本の国際交流もさらに広がったのではないかな。
- ミキ
- 海外渡航の解禁は,日本とハワイとの関係の歴史にも関わっていて,1868年に約150人の日本人がハワイに移民として渡っているよ。だけど,幕府が崩壊するタイミングだったこともあって,移民の契約のトラブルも生じ,明治新政府は対応に苦慮したんだって。
- カズ
- その後,ハワイ王国と日本とは,ⓑ1871年に条約を結んでいるね。この条約で,ハワイの人が日本人を労働者として雇うことができる,ということが定められているよ。ハワイ王国では,サトウキビ栽培が盛んで,労働者として日本人移民を求めていたようだよ。
- ミキ
- だけど,ハワイへの移民はしばらく行われず,移民事業が本格化するのは,1885年のことのようだね。ⓒ1885年からの約10年間,ハワイ政府と明治政府との合意で,約3万人の日本人がハワイに渡航したんだって。
- カズ
- なぜ,そんなに多くの日本人がハワイに渡ったのだろう。このことについて,もっと調べてみようよ。
問1 下線部ⓐに関して,幕末における日本と海外諸国との交流について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 江戸幕府は,オランダ人の教官を招いて,この地で海軍伝習を始めた。
- Y 幕末に来日したアメリカ人宣教師のこの人物は,和英辞典を作成するなど,日本の英語教育にも影響を与えた。
- 長崎
- 浦賀
- ヘボン
- ベルツ
問2 下線部ⓑについて,次の史料1は日本とハワイ王国との修好通商条約の条文の一部である。この史料1に関して述べた後の文a~dについて,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料1
ここに条約を結べる両国の臣民は,他国の臣民と交易するを許せる総ての場所,諸港,及び河々に,其の船舶及び荷物を以て自由安全に来り得べし。故に,両国の臣民,右諸港諸地に止り,且つ住居を占め,家屋土蔵を借用し,又これを領する事妨げなく,諸種の産物,製造物,商売の法令に違背せざる商物を貿易し,他国の臣民に已に許せし,或いは此の後許さんとする別段の免許は,何れの廉にても,他国へ一般に許容するものは両国の臣民にも同様推及(注)すべし。
(『大日本外交文書』)
(注)推及:おし及ぼすこと。
- この条文では,両国の国民が相手国の国内を場所の制限なく往来したり,滞在・居住・商売したりすることができる,ということが定められている。
- この条文では,通商に関して他国の国民に認めたことを,日本とハワイ両国の国民にも適用する,ということが定められている。
- この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規には,台湾での琉球漂流民殺害事件の賠償金の規定が含まれた。
- この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規は,相互の領事裁判権を認めるなど,対等な条約内容であった。
問3 下線部ⓒに関連して,1885年から1894年までの10年の間に生じた出来事に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 日本と清国との条約により,両国の朝鮮からの撤兵が定められた。
- 日本とイギリスとの間で,領事裁判権の撤廃などを定めた条約が調印された。
- 朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁じたことに対し,日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた。
問4 ミキさんとカズさんは,なぜ1885年から多くの日本人がハワイに渡航したのか,その理由や背景について興味を持ち,それに関する史料2・3を収集した。史料2・3の内容に関して述べた後の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料2 ハワイ領事館で書記官を務めた藤田敏郎の回顧録
(当時の外務卿は)我が農民を送り,欧米式農業法を実習し,秩序的労働法を覚へ,且つ相応の貯蓄を携へ帰国せしめ,(中略)十数年の後には我が農村の労働方法,大いに改良せらるべしと思惟し(中略),長防二州(注1)ならびに広島熊本県下において出稼人を募集せしめらる。
(『海外在勤四半世紀の回顧』)
(注1)長防二州:現在の山口県のこと。
史料3 山口県によるハワイへの海外渡航者の分析
労働出稼者の増加するは(中略)内国に於ては労働者賃金の薄利なるのみならず,世上一般事業の不振なるに従ひ,労働者就業の困難に迫らるるに依るもの,蓋し(注2)多きに在らん。
(山口県「県政事務功程」)
(注2)蓋し:思うに。
- X 史料2によると,当時の外務卿はハワイに欧米式農業の技術を伝え,移民たちがその対価を得て帰国することを期待していたと考えられる。
- Y 史料3によると,ハワイに渡航した人々の中には,日本での賃金の低さや不況により生活苦に陥っていた人が少なくなかったと考えられる。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第6問
日本において鉄道が開通して,2022年で150年を迎える。日本における鉄道の歴史とその役割について述べた次の文章A・Bを読み,後の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
A明治初期,政府によって産業育成が図られる一環として,ⓐ1872年,新橋―横浜間に鉄道が開通した。後に大阪―神戸間も開通するなど,当初,鉄道は大都市と開港した港を結ぶ路線が敷設された。
鉄道は,気候に大きく左右されず,時間が正確なため,各地の産物を都市や港に輸送する手段として用いられ地域の産業発展に寄与した。例えば,横浜と鉄道で結ばれた群馬県や長野県からは,開港以来の主要輸出品であるアが輸送された。また,九州では,産業革命のエネルギー源であるイが鉄道により積出し港まで輸送された。
ⓑ産業発展に伴い,旅客輸送と貨物輸送はいずれも鉄道を中心に拡大するとともに,鉄道の駅を中心とした周辺地域との貨物輸送や都市内の旅客・貨物輸送が盛んになった。貨物輸送では,駅からの輸送において,荷車や馬車などの利用が増加する一方,河川を利用した舟運はその地位を低下させた。旅客輸送では,第一次世界大戦後に,市電やバス,地下鉄などの都市内交通が発展した。また,国内を中心に展開した鉄道網は,ⓒ20世紀以降の日本の対外関係の下,帝国内の旅客・貨物輸送の双方において重要な役割を持った。問1 空欄アイに入る語句の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,次の史料は,1872年に出された改暦を定めた詔書と同年に開通した新橋―横浜間の9月の時刻表の一部である。この史料に関して述べた後の文a~dについて,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 史料のような分刻みの時刻表は,太陽暦が採用される前から作られていた。
- 史料の時刻表が出された当時は,太陽暦が採用されていた。
- 動力源である電気の供給が安定しなかったため,この鉄道の定時での運行は困難を極めた。
- 乗客に対して規律ある行動を求めることで,定時での運行を厳守しようとしていた。
問3 下線部ⓑに関連して,次の表1は,1885年から1930年までの鉄道(国鉄・民営鉄道)の旅客輸送と営業距離の推移を表したものである。表1に関して述べた文として誤っているものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
問4 下線部ⓒに関連して,20世紀以降の日本の対外関係のなかで,鉄道に関わる諸政策・事件を説明した次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 奉天郊外において,張作霖が乗っていた列車が爆破された。
- 南満州鉄道株式会社が設立された。
- 段祺瑞政権に対して,鉄道建設にも関わる巨額の経済借款を与えた。
B
ⓓ敗戦後も,鉄道は貨物輸送や旅客輸送において重要な交通機関としての地位にあり,人々の移動に欠かせない交通機関であった。ただ,1960年代以降,乗用車やトラックが普及するとともに,国道や高速道路網の整備によって,ⓔ自動車が貨物輸送や旅客輸送において中心的な役割を担うようになった。鉄道は,貨物輸送から,都市間や都市内の旅客輸送に注力するようになった。1964年に東海道新幹線が開通し,その後,新幹線網は各地に広がった。一方で,過疎に悩む農村や産業が衰退した地域で赤字路線の存在が問題となり,国鉄の経営にも大きな影響を与えた。第3セクター(注)への転換や路線の廃止が実施されるなど,都市部での鉄道網の展開とは対照的だった。そのようななかで,ⓕ国鉄の民営化が行われ,現在のJR7社の体制に転換した。
鉄道は日本の産業発展において重要な役割を果たすだけでなく,私たちの生活に密接に関わっている。
(注)第3セクター:国や地方自治体と民間企業の共同出資により設立された事業体。
問5 下線部ⓓに関連して,戦後10年(1945~55年)の間に撮影された写真X・Yと,それに関して述べた文a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 写真Xは,深刻な食料不足の影響で,都市から農村へ買い出しに行く人が多くなったことを示している。
- 写真Xは,恐慌の影響で,都市から農村に戻る人が多くなったことを示している。
- 写真Yは,平均して前年比10%ほどの伸び率で,日本経済が急成長していた時期の事件を示している。
- 写真Yは,企業の倒産や失業者の増大が社会不安となっていた時期の事件を示している。
問6 下線部ⓔに関連して,次の表2は,高度経済成長期以降の鉄道・自動車の旅客輸送量と乗用車の保有台数,高速道路延長,新幹線・高速道路の開通年を表したものである。表2について述べた文として正しいものを,後の①~④のう ちから一つ選べ。
問7 下線部ⓕに関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 「戦後政治の総決算」を掲げた改革で,電電公社も民営化された。
- Y 国鉄の民営化は,小泉純一郎が首相の時に行われた。
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