大学入学共通テスト日本史B過去問 令和3年度1月30日・31日(解説なし)
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問題文正答率:33.33%
第1問
次の文章A・Bは,高校生のけいさんとなおさんとの会話である。この文章を読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 18)
A- けい
- 歴史の授業って,男性や戦争の話が多くて,日常の女性の様子とか,ほとんど分からない気がするな。
- なお
- 僕も同じような疑問があって,先生に質問したら,いくつか女性に関わる史料を教えてもらったよ。史料1とかどう?
- けい
- これはどういう史料なの?
- なお
- アが決起したという史料だよ。近世の百姓一揆や打ちこわしに似ている,という見方もあるみたいだよ。
- けい
- 帝国議会とかできているんだから,議員さんは,米の不足や米価の問題の解決のために,アの声を聞いてくれれば良かったのに……。
- なお
- でも,難しかったかな。このとき普通選挙は,イ。
- けい
- そうか。今の政治制度とはずいぶん違っているんだね。
- なお
- 歴史上の女性といえば,ⓐ古代には女性の天皇がいたよね。でもその後はどうなったんだろう。ⓑ近世にも女性の天皇はいたんだっけ?
- けい
- どうだったかな,後で教科書を開いて,確認してみよう。
史料1
昨日午後七時過ぎより漁師町一帯の女房連は海岸に集合し,その数百七,八十名に達せるが,勿ち五,六十名宛にて三隊に別れ,一隊は浜方有志方へ,一隊は町内有力者方へ,一隊は町中の米屋及び米所有者の宅を襲うて現下の窮状を訴えて,所有米は決して他地に売却せざる事,このさい義俠(注1)的に米の廉売(注2)を為されたしと哀願し,尚お若し之を聴容れざれば,家を焼払え,一家を鏖殺(注3)せんと脅迫して,事態穏やかならず。
(『高岡新報』1918年8月4日)
- (注1)義俠:強きをくじき,弱きを助けること。
- (注2)廉売:安売り。
- (注3)鏖殺:皆殺し。
問1 史料1を読んで,空欄アイに入る語句および文の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,古代の3人の女性天皇に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- この天皇は,恵美押勝の乱を鎮圧して重祚した。
- この天皇は,隋に臣従しない形式の国書を出した
- この天皇は,蝦夷が居住する東北地方へ阿倍比羅夫を派遣した。
問3 下線部ⓑに関連して,近世の天皇・朝廷について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
- なお
- 史料2は女性が書いた詩だよ。
- けい
- こうした文学作品以外にも,女性が書いたものはあるのかな?
- なお
- 先生によると,史料3は,中世の女性商人の手紙とされているみたいだよ。この手紙はその後,裏面にお経が書かれて,経典として使われていたんだって。
- けい
- そうでもしないと,中世の女性商人がたくさん手紙を交わしていても,ほとんど史料として残らないんだね。実際はこういう女性商人の妻に養ってもらっていた夫もたくさんいたのかもね。
- なお
- たぶんね。史料1~3を見てきたけれど,ⓒ女性に着目しながら日本史を見直してみるのも面白いよね。
- けい
- 教科書だけではなく,歴史の本も広く調べてみよう。
史料2
あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ(中略) 旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か(後略)
史料3
その割符をまだ換金して送金していないならば,今月開催される備後の深津市へ人をやって,割符を換金して用途(注1)をすべて受けとってきてください。私の方で,ある人に負債ができたので,このように連絡する次第です。深津市に着いたならば,尼御前の仮屋(注2)へ人をやってください。
(厳島神社所蔵,大意)
- (注1)用途:銭のこと。
- (注2)尼御前の仮屋:尼御前という女性商人の営む仮設店舗。
問4 史料2と同時期の情勢について記した史料として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問5 史料3に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 現在この手紙が残っているのは,他の目的のために再利用された結果である。
- Y この手紙を書いた女性商人は,自身が必要とする銭を,深津市の尼御前の営む店ならば,十分に所持していると期待している。
問6 下線部ⓒに関して,けいさんとなおさんが女性に関する歴史を調べて,メモを作成した。作成された次のメモa~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 縄文時代には,女性の特徴をよく表した石棒がつくられた。
- 院政期には,八条院領のように,女性のもとに集積された荘園があった。
- 江戸時代には,女性による歌舞伎が行われたが,幕府によって禁じられた。
- 留学から帰った津田梅子が,東京専門学校を設立した。
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問題文正答率:33.33%
第2問
醍醐天皇は,914年,官人に政治についての意見を提出させた。次の史料は,これに応じて三善清行が提出した「意見封事十二箇条」の序論の一部である。この史料を読み,下の問い(問1~4)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
史料
すでにして欽明天皇の代に,仏法初めて本朝に伝え,推古天皇より以後,この教え盛んに行わる。上は群公卿士(注1)より,下は諸国の黎民(注2)に至るまで,寺塔を建立つることなき者は,人数に列せず。故に資産を傾け尽くし,浮図(注3)を興し造る。(中略)降りて天平に及りて,弥尊重を以てす。遂に田園を傾けて,多く大寺を建つ。(中略)また七道諸国をして国分二寺を建てしむ。造作の費え,各その国の正税(注4)を用いたりき。ここに天下の費え,十分にして五(注5)。
桓武天皇に至りて,都を長岡に遷したまうに,製作すでに畢りて,更に上都(注6)を営む。(中略)皆土木の巧みを究め,尽く調・庸の用を賦す。ここに天下の費え,五分にして三。
- (注1)群公卿士:貴族や官人たち。
- (注2)黎民:庶民。一般の人々。
- (注3)浮図:仏塔。
- (注4)正税:諸国で管理した稲。租と,出挙の利息の稲を,諸国の正倉に蓄えたもの。
- (注5)天下の費え,十分にして五:「国家全体の資産の10分の5を失った」という意味。
- (注6)上都:都。
問1 史料の内容について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 次の表は,史料で三善清行が批判している仏教の問題を検証するために,古代の仏教と文化・政治についてまとめたものである。空欄ア~ウに入る,各文化の特色を述べた下の文a~cの組合せとして正しいものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 平城京を中心に発展した,国際色豊かな貴族文化である。
- 遣唐使によって伝えられた初唐の文化の影響を強く受けている。
- 高句麗・百済・新羅や中国南北朝の文化の影響を強く受けている。
問3 史料・表と,6~8世紀における政治や社会の状況を踏まえ,この時期の仏教と文化・政治・社会との関わりについて述べた文として波線部の誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問4 次のレポートは,三善清行が「意見封事十二箇条」を提出した背景について,史料と表を検討した結果を踏まえて論じたものである。このレポートを読み,次ページの問い(1)・(2)に答えよ。
レポート
醍醐天皇の治世は,天皇親政の理想的な時代として,後に村上天皇の治世とあわせて「延喜・天暦の治」と賛美されたが,この頃は,現実には旧来の律令制に基づく天皇主導の国家統治が終焉に近づいた時代であった。中央では,エ。また,地方では,オ。そのようななかで醍醐天皇の求めに応じ「意見封事十二箇条」を提出した三善清行の行為は,律令制的な政治の維持を図ろうとした官人による懸命な意思の表明であったと言えるであろう。
清行が史料で述べた事柄のなかには,正確な史実に基づいていない誇張された部分があり,特に仏教については,国家財政の窮乏をもたらしたと批判するばかりである。だが,それは,備中介となり地方官人の実務に携わった自らの経験からⓐ当時の政治や社会における問題の深刻さを実感していた清行が,説得力を強めるためにあえて用いた表現方法と見ることもできるのではないだろうか。
(1)空欄エオに入る次の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 醍醐・村上両天皇の親政の合間に藤原忠平が摂政・関白となり,この後,忠平の子孫が摂関政治を行う端緒を開いた
- 幼少の天皇が即位し,藤原良房が摂政に,ついで藤原基経が摂政・関白となって,藤原氏北家の勢力が強まった
- 朝廷から任命された征夷大将軍が,抵抗を繰り返す蝦夷の鎮圧に当たっていた
- 朝廷から任命された押領使や追捕使が,各地で盗賊・海賊の逮捕や反乱の鎮圧に当たっていた
(2)下線部ⓐに関して,当時の地方における政治や社会の問題について述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 女性の数が多い,実態に基づかない戸籍が作成され,調・庸の徴収が困難になっていた。
- Y 違法な荘園が停止され,班田の励行が命じられて,律令制の維持が図られた
解説・コメント
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第3問
中世の政治・社会・文化について述べた次の文章A・Bを読み,下の問い(問1~5)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
A源頼朝は,源平合戦で平氏政権を倒した後,アを戦った源頼義・義家父子と同じように奥州に攻め入り,武家の棟梁としての地位を示そうとした。頼朝は,平泉の奥州藤原氏を討つため,1189年8月に平泉を攻略し,同9月にイを討ち取った。
その後頼朝は,ⓐ平泉において戦後処理を行い,10月には鎌倉に帰還した。これを奥州(奥羽)合戦という。
奥州合戦に際し,全国的な軍事動員が行われたことで,ⓑ頼朝による武士の編成が進み,その枠組みは平時にも連続していった。このことから,奥州合戦は,鎌倉幕府の成立を考える上で極めて重要な画期だと言える。
問1 空欄アイに入る語句の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,次の史料に関して述べた下の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料
中尊寺の寺僧は,頼朝に対して,奥州藤原氏が造立した平泉内の寺社を書き上げたリストを提出した。頼朝は信仰心をもよおし,それらの諸寺社の所領を保証するとともに,祈禱を命じた。頼朝の指示が近隣の寺の壁に貼り出され,寺僧たちはひきつづき寺にとどまることを決心できた。
(『吾妻鏡』文治5(1189)年9月17日条,大意)
- 『吾妻鏡』は,江戸時代になって,鎌倉幕府の歴史を記した歴史書である。
- 『吾妻鏡』は,鎌倉時代に鎌倉幕府の歴史を記した歴史書である。
- 頼朝は,藤原氏が造立した中尊寺など平泉の堂舎を破壊した。
- 頼朝は,藤原氏が造立した中尊寺など平泉の堂舎を保護した。
問3 下線部ⓑに関連して,鎌倉幕府の組織編成や政治方針について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
鎌倉幕府の滅亡以降,長期にわたる混乱が続いた。足利尊氏は,後醍醐天皇と対立し,1336年に光明天皇を擁立した。その結果,二つの朝廷が併存し,約60年にわたって内乱状態となった。これをⓒ南北朝の内乱という。
南北朝の内乱は,非常に多くの戦死者を出した。ⓓ足利尊氏は,諸国に安国寺・利生塔を造立し,元弘の変以来の戦死者の霊を弔った。
問4 下線部ⓒに関して,内乱中の動向について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 軍費(兵粮米)の徴収をめぐり,幕府が発令した。
- Y 南朝勢力は,この人物のもとで九州(大宰府)に影響力を持った。
- 分国法
- 半済令
- 以仁王
- 懐良親王
問5 下線部ⓓに関連して,信仰に関わる出来事に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 抵抗を続けていた伊勢長島の一向一揆は,徹底的に弾圧された。
- 叡尊・忍性の活動により,殺生禁断など戒律を重視する律宗が台頭した。
- 応仁の乱直前の寛正の飢饉では,時宗の信者による炊き出しや死者供養が行われた。
解説・コメント
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第4問
次のホワイトボードは,享保の改革と寛政の改革とにはさまれた時期をテーマとする授業において,生徒がこの時期の事柄を調べて書き出したものである。これを見て,下の問い(問1~5)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
ホワイトボード
- ⓐ幕府の権力を握った人物の名前をとって,田沼時代と呼ばれる。
- 商人の力を利用する経済政策が採られ,経済が発展した。
- ⓑ海外の影響を受けた新しい画風の絵画が作成されるようになった。
- 西洋の学術が取り入れられ,医学や天文学の研究が進んだ。
- ⓒ蝦夷地の開発が計画された。
- ⓓ百姓一揆や打ちこわしが発生した。また,ⓔ村方騒動が各地で頻発した。
問1 このホワイトボードに書き加えることが最も適当な事柄を,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,江戸幕府の支配の仕組みについて述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問3 下線部ⓑに興味を持った生徒の一人は,画集でいろいろな絵を見ていく中で,亜欧堂田善の銅版画(図)を見つけた。この作品に関して述べた下の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- この作品が用いた技法は,細かくて正確な表現が求められる地図や解剖図などに用いられた。
- この作品が用いた技法は,陰影をつけずに表情や仕草を強調する美人画などに用いられた。
- この作品のように,西洋の技術や知識を積極的に取り入れようとする姿勢がうかがえる書籍として,志筑忠雄の『暦象新書』がある。
- この作品のように,西洋の技術や知識を積極的に取り入れようとする姿勢がうかがえる書籍として,会沢安(正志斎)の『新論』がある。
問4 下線部ⓒに興味を持った生徒の一人は,さらに調べていく中で,次の史料1を見つけた。史料1を説明した下の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料1
日本の力を増すには,蝦夷の金山を開き,ならびにその出産物を多くするにしくはなし。(中略)然るに,先に言う所のヲロシア(注1)と交易の事起こらば,この力を以て開発有りたき事也。この開発と交易の力をかりて,蝦夷の一国を伏従(注2)せしめば,金,銀,銅に限らず一切の産物,皆我が国の用を助くべし。(中略)また,このままに打ち捨て置きて,カムサスカ(注3)の者共,蝦夷地と一緒になれば,蝦夷もヲロシアの下知に附きしたがう故,最早我が国の支配は受けまじ。
(工藤平助『赤蝦夷風説考』)
- (注1)ヲロシア:ロシアのこと。
- 注2)伏従:服従のこと。
- (注3)カムサスカ:カムチャツカ半島のこと。
- X ロシアとの交易を行い,この力によって蝦夷地の開発を行うべきだと主張している。
- Y 蝦夷地がロシアの支配下に置かれることを恐れ,どこの国にも属さない地域として,蝦夷地を自立させるべきだと主張している。
問5 この学習の最後に,先生が史料2を提示して,この時期がどのような時期だったか,ホワイトボードの情報も合わせて各自で考えるよう指示した。これに対する生徒の考察である次ページの文a~dについて,最も適当なものの組合せを,次ページの①~④のうちから一つ選べ。
史料2
すでに町かた人別の改め(注1)というものも,ただ名のみに成りければ,いかなるものにても,町にすみがたきものはなく,(中略)実に放蕩無頼の徒,すみよき世界とは成りたりけり。さるによりて,在かた(注2)人別多く減じて,いま関東のちかき村々,荒地多く出来たり。(中略)天明午のとし(注3),諸国人別改められしに(注4),まえの子のとし(注5)よりは,諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人,みな死にうせしにはあらず,ただ帳外れ(注6)となり,(中略)または江戸へ出て人別にも入らず,さまよいあるく徒とは成りにける。
(松平定信『宇下人言』)
- (注1)人別の改め:一般に,村・町に属する人を,宗門改帳(宗旨人別帳)に登録する作業のことを指す。
- (注2)在かた:都市(町かた)に対する農村の意味。
- (注3)天明午のとし:天明6(1786)年。
- (注4)諸国人別改められしに:幕府によって,6年に1度行われた全国の人口調査のことを指す。
- (注5)まえの子のとし:安永(1780)年。
- (注6)帳外れ:宗門改帳(宗旨人別帳)の登録から外れること。
- 史料2では,諸国人別改めで把握された人数が大きく減少したことについて,都市の人口が,周辺の荒地へと流出したことが,要因の一つだと述べている。
- 史料2では,諸国人別改めで把握された人数が大きく減少したことについて,農村の人口が,都市へと流出したことが,要因の一つだと述べている。
- この時期には西洋の学術が取り入れられた。ホワイトボードの下線部ⓓを合わせて考えると,西洋で生まれた人権意識に基づいて,幕府を打倒しようとする動きが各地で生じた時期と言える。
- この時期には商品経済が発展した。ホワイトボードの下線部ⓔを合わせて考えると,経済の発展に伴って貧富の差が広がり,不満を持った百姓による村役人の不正の追及が各地で起きた時期と言える。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第5問
近年では日本を訪れる外国人が増え,日本の人々との交流も深まっている。国際交流の歴史に関心を持ったある生徒が,明治時代における西洋からの制度や技術の導入について調べた。そこで,欧化政策を採った井上馨と,産業の近代化に貢献した渋沢栄一が,共に幕末に一度は攘夷を志向して外国人を排斥しようとしたものの,西洋への渡航を経て,立場を変化させたことを知り,二人の関わりについて次の年表を作成した。この年表を参照して,下の問い(問1~4)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 12)
問1 年表に関連して,幕末の出来事に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 井上馨が年表にある攘夷を実行した。
- アメリカ総領事ハリスが下田に着任した。
- イギリスなどの要求により,日本は輸入の関税率を下げた。
問2 年表の下線部ⓐとⓒとに関連して,明治初期の財政について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 井上馨と渋沢栄一が勤めた大蔵省は,この組織の下に置かれ,財政を担当した。
- Y 明治政府は,財政改革の一環として,この政策を実行し,歳出を削減した。
- 神祇官
- 太政官
- 地租の2.5%への引下げ
- 家禄の廃止
問3 年表の下線部ⓑ・ⓓは,西洋の生産技術を導入した近代的な工場であった。この2つの工場をモデルとして発展した産業に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 明治末期,下線部ⓑの産業の製品は,外貨獲得のための重要な輸出品であった。
- Y 明治末期,下線部ⓓの産業の原料は,主に国内で生産されていた。
問4 次の史料は,年表の下線部ⓔの際の新聞記事である。史料を参照して,この時期の政治に関して述べた下の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料
政局は井上伯を中心として,(中略)此一両日来,伊藤侯と山県侯(注)とは各別々に渋沢氏を招き寄せて(中略)大蔵大臣たらんことを勧誘したるも,氏は其以前既に井上伯自身より勧誘を受けて之を固辞したる程なれば,一昨日午前と午後に伊藤侯と山県侯より説き勧められし時も断然受任し難き旨を答え置き,(中略)渋沢氏の辞退により(中略)井上伯いよいよ総理を固辞するに至れば,時局は更に逆転して,其収拾の程も測り難きが故に,此処伊藤・山県及び其他の元老に於て最も苦心の存する所なるべく(後略)。
(『時事新報』1901年5月23日)
(注)伊藤侯と山県侯:伊藤博文と山県有朋のこと。
- 史料によると,渋沢栄一は要請に応えて大蔵大臣就任を承諾した。
- 史料によると,伊藤や山県は元老として新しい内閣づくりに関与した。
- この時期の総理大臣は,その就任に議会による承認が不要であった。
- この時期の総理大臣は,陸海軍の統帥権を有していた。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第6問
近現代の食文化・食生活について述べた次の文章A・Bを読み,下の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
A
2013年に和食が世界無形文化遺産として登録され,その料理だけでなく,ⓐ多様な食材や自然に育まれた食文化も注目されるようになった。ただ,私たちの普段の食事や食文化は,古くからの伝統を残すだけでなく,様々な歴史的過程の中で誕生・変化してきたものである。
例えば,明治初期に西洋料理が紹介され,ⓑ都市部を中心に肉を食べたり牛乳を飲んだりする習慣が広まった。その後,オムレツ,トンカツ,コロッケなど,今では身近となった洋食も登場している。また,中華料理や韓国料理などのように,ⓒ近隣諸国や地域の人々との交流や移動をきっかけに,普及したものもある。近年では各地域の食文化の特色を生かした「ご当地グルメ」も話題となっている。
問1 下線部ⓐに関連して,食に関わる経済・社会・文化について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓑに関連して,次の表は,敗戦後から1995年までの一人一日当たりの食料(米,肉類,牛乳・乳製品)消費量を示したものである。また,データa~dは,1930年,1946年,1975年,2005年のいずれかの年の食料消費量の値である。表の説明を参考にして,表中のX・Yと,それに該当するデータa~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
表の説明
- 敗戦後,食生活の洋風化・多様化の影響で,牛乳・乳製品の消費量は増加し続け,肉類もほぼ同じ傾向にあった。
- 敗戦直後の食糧事情が悪かったため,1946年時の米の消費量は1930年と比べて減少した。
問3 下線部ⓒに関連して,日本と東アジアの人々の移動に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 満州などに進出した日本人の一部が,ソ連によってシベリアに抑留された。
- 委任統治下にあった南洋諸島に,沖縄出身者など多くの日本人が移り住んだ。
- 辛亥革命が起きた2年後,孫文らが日本に亡命した。
B
穀物の中でも米は食生活の中心にあった。しかし米を主食にできた人々は少なく,特に農村では米,雑穀,麦,イモ類などを混ぜて食べていた。
明治時代以降の人口増加による需要の拡大に伴い,米や麦は生産量が増加するとともに,海外からの供給も増加した。東南アジアなどでとれた米は,内地の米に比べて安価で,凶作や米価の高騰の際に,ⓓ都市の貧民や貧しい農民らが消費していた。また,ⓔ日本国外から国内に輸入する米の関税については,様々な議論が交わされた。
その後,ⓕアジア太平洋戦争(太平洋戦争)時には食糧が不足し,人々の生活は苦しくなった。敗戦後には食糧事情が極めて悪化し,ⓖアメリカから小麦などの緊急食糧輸入が実施された。これ以後,小麦の供給増加を受けて,学校給食でパン食が普及するなど食生活の変化が進んだ。
問4 下線部ⓓに関連して,近代の都市や農村の人々の生活について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問5 下線部ⓔに関連して,第一次世界大戦の直前には,関税の維持か廃止かをめぐって議論が生じていた。米の関税維持・廃止の支持層X・Yと,それぞれの支持の理由a~dとの組合せとして最も適当なものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
支持層
- X 米の関税維持を支持する層。例えば,農地を所有し小作米を収入源とする地主。
- Y 米の関税廃止を支持する層。例えば,賃金を支払って,労働者を雇用する資本家。
理由
- 国内の米価の安定を望んでいるから。
- 国内の米価の低下を望んでいるから。
- 消費者の生活費の低下を望んでいるから。
- 消費者の生活費の上昇を望んでいるから。
問6 下線部ⓕに関連して,戦時下の食に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X カレーライスなどの洋食が人気となり,人々に広まった。
- Y 代用食としてサツマイモの栽培が奨励された。
問7 下線部ⓖに関連して,アメリカから緊急食糧輸入が行われた占領期の出来事について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 食料不足に悩む国民が,皇居前広場を中心にデモ行動を起こした。
- Y アメリカは日本の占領政策を転換し,インフレの防止と赤字財政解消を要求した。
- 二・一ゼネスト
- 食糧メーデー
- ドッジ=ライン
- レッド=パージ
解説・コメント
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解説・コメント