大学入学共通テスト日本史B過去問 令和3年度1月16日・17日(解説なし)
オプション
問題文正答率:50.00%
第1問
高校の授業で「貨幣の歴史」をテーマに発表をすることになった咲也さんと花さんは,事前学習のために博物館に行った。博物館での二人の会話A・Bやメモなどを読み,下の問い(問1~6)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 18)
A- 咲也
- 2024年には新しい紙幣と500円硬貨が発行されるけど,キャッシュレス化が進んでいるのに,今さら貨幣を発行する意味があるのかな。そもそも古代の銭貨は,何のために発行されたのか,すこし調べてみたよ。
咲也さんのメモ
古代の銭貨はなぜ発行されたのか?
まとめ
- 唐の制度にならい,国家が銭貨を鋳造・発行した。
- 銭貨の流通について,国家は自ら鋳造したものしか認めなかった。
- 国家が発行した銭貨は,都城の造営をはじめ,様々な財政支出に用いられた。
- 花
- なるほど,銭貨とともに米や布・絹などが貨幣として使われてきたのか。古代国家は,銭貨の使用を促す政策を出し,流通を図ったんだね。
- 咲也
- でも展示をみると,材料となる銅の産出量が減って,銭貨は小さく粗悪になっているね。そうして国家の発行する銭貨に対する信用が失われて,発行は中止されたんだね。
- 花
- あれ? でもここに展示してあるのはⓐ鎌倉時代の市場の図だよ。銭貨を扱いやすく束ねた銭さしがみえるね。
- 咲也
- ⓑ中世の権力者はこうした銭貨の流通にどう対応していたんだろう。
問1 咲也さんのメモに基づく次の文X・Yと,それに最も深く関連する8世紀前半の法令a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 国家は,自ら鋳造した銭貨しか流通を認めなかった。
- Y 国家が発行した銭貨は,様々な財政支出に用いられた。
8世紀前半の法令(大意)
- 運脚らは銭貨を持参して,道中の食料を購入しなさい。
- 私に銭貨を鋳造する人は死刑とする。
- 従六位以下で,銭を10貫(注)以上蓄えた人には,位を一階進める。
- 禄の支給法を定める。(中略)五位には絁4匹,銭200文を支給する。
(注)貫:銭の単位。貫=1000文。
問2 下線部ⓐについて,二人が見ていたのは次の図1である。図1に関して述べた下の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 当時の日本では,宋などの銭貨が海外から大量に流入しており,この場面のような銭貨の流通は一般的であったと考えられる。
- 当時の日本では,国家による銭貨鋳造は停止しており,この場面のような銭貨の流通は例外的であったと考えられる。
- この場面に描かれている建物は,頑丈な瓦葺きの建築である。
- この場面には,銭貨のほかにも,古代に貨幣として通用していたものが描かれている。
問3 下線部ⓑに関連して,中世の流通・経済に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 戦国大名だけでなく,室町幕府も撰銭令を出した。
- Y 明との貿易をめぐり,細川氏と大内氏が寧波で争った。
- 花
- 古代に停止された国家による銭貨の鋳造が再開されるのは,近世になってからなのね。江戸時代には,幕府は銭貨だけではなく,金貨や銀貨も発行している。
- 咲也
- 金属の貨幣だけでなく,藩札も発行されているね。紙幣の前身みたいだけど,こうやって展示をみると,地域ごとに多様性があって,面白いな。
- 花
- 幕末には,江戸幕府が発行した金貨・銀貨・銭貨や各藩が発行した藩札など,様々な貨幣が流通していたわけね。
- 咲也
- 近代以後の展示もあるよ。明治政府は,多種多様な貨幣を統一しなくてはならなかったんだね。ⓓ1871年に新貨条例を制定して,ここで,はじめて「円」が日本の貨幣単位になったのか。アメリカ金貨のドルが日本金貨の1円に相当することになっている。
- 花
- 銭貨の単位は古代からずっと文だったし,金貨の単位は両とか分だったのに,なぜ新しい貨幣の単位は円になったのかな?
- 咲也
- 近世から国際的に流通していた円形の銀貨が「円」の起源だという説がある らしいよ。また調べてみよう。
問4 下線部ⓒに関連して,江戸時代に流通した小判の重量と金の成分比率の推移を示す次の図2を参考にして,江戸時代の小判について述べた文として誤っているものを,下の①~④のうちから一つ選べ。なお金の成分比率(%)は,幕府が公定した品位による。
問5 下線部ⓓに関連して,円が貨幣単位となった後の明治期に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 銀との交換を保証する紙幣が発行され,銀本位制が確立した。
- 対外戦争の賠償金により,欧米と同じく,金本位制が確立した。
- 戦費調達のため,多額の不換紙幣が発行された。
問6 博物館での学習を終えて,貨幣史の学習のまとめを進めていた咲也さんと花さんは,海外の図書館がインターネット上で,次ページの図3のような資料を公開していることを知った。その内容を先生に質問したところ,先生も興味をもち,次ページのような解説文をまとめてくれた。この解説文も踏まえて,日本の貨幣に関して述べた次の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 中世には,銭貨として中国銭が流通したため,私鋳銭は使われなかった。
- 近世には,寛永通宝が大量に鋳造され,流通するようになった。
- 図3の事件の際,日本国内で旧円の旧紙幣が流通を禁止されていたのは,金融緊急措置令が公布されたためであった。
- 図3の事件の際,日本では1ドル=360円の単一為替レートが採用されていた。
図3 『ジアリオ・ダ・ノイテ紙(サンパウロ版)』1947年5月3日
解説文
ブラジルの詐欺事件で,日系移民の犯人が捕まったことを報じる記事。ブラジルには,1945年の敗戦後も,日本の敗戦を信じない日系移民が大勢いた。彼らに対し,「帰国用の迎えの船が来るから,日本の円が必要だ」とだまし,日本では1946年には新円切り替えにより流通が禁止されていた旧円の旧紙幣を高額で売りつけ,ブラジルの貨幣を入手する詐欺事件が起きていた。当時の日系移民たちが直面していた厳しい状況にも目を向けてみよう。
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問題文正答率:50.00%
第2問
「日本における文字使用の歴史」をテーマとする学習で,Aさんは「文字使用の開始」について,Bさんは「文字使用の展開」について調べ,授業で発表することになった。それぞれの発表要旨を読み,下の問い(問1~5)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
Aさんの発表要旨
日本列島で最初に使われた文字は漢字である。中国の歴史書には,紀元前1世紀頃から,倭人が中国に使者を派遣したと書かれている。ⓐ前近代における東アジア諸国間の外交においては,正式の漢文体で書かれた国書をやりとりするのが原則で,倭国も漢字の使用を求められたと考えられる。一方,ⓑ日本列島において,外交以外の場面で文字が使用されるようになるのは,確実には5世紀まで下る。それ以前についても,漢字らしきものの書かれた土器などが発見されているが,それが文字であるか記号であるかに関しては,見解が分かれている。
問1 Aさんは下線部に関して,東アジア諸国の位置関係を把握しておくことが必要であると考えた。そこで,1世紀,3世紀,5世紀における中国諸王朝の領域が示された次の地図Ⅰ~Ⅲを用意した(模様のある部分が中国諸王朝の領域である)。この地図Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
問2 Aさんは下線部ⓑの説明に当たって,「无利弖」が保持したと考えられる,次の江田船山古墳出土鉄刀の銘文(史料)を取り上げた。そして,人名表記の仕方に注目し,渡来人と考えられる「張安」のみ,姓(張)+個人名(安)となっており,他の倭人とは表記方法が違うことを発表した。この史料に関して述べた下の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料(下線を付した箇所は人名)
天の下治らしめしし獲□□□鹵(注1)大王の世,典曹に奉事せし人(注2),名は无利弖。八月中,大鉄釜を用い,四尺の廷刀を幷わす(注3)。(中略)刀を作る者,名は伊太和,書する者は張安也。
(注1)獲□□□鹵:稲荷山古墳出土鉄剣銘の「獲加多支鹵」と同一人物とされる。
(注2)典曹に奉事せし人:文官として大王に仕えてきた人。
(注3)大鉄釜を用い,四尺の廷刀を幷わす:「鉄刀の材料として大鉄釜を使用し,その鉄を混合して尺の刀を製作する」という意味とされる。
- X 「无利弖」「伊太和」は,漢字の音を借用した表記である。
- Y この史料は,稲荷山古墳出土鉄剣銘と合わせて,当時のヤマト政権の勢力が関東地方から九州地方まで及んでいたことを示す。
Bさんの発表要旨
日本で漢字が行政の場でも広く使用されるようになるのは,7世紀後半以降のことである。ⓒそれを顕著に示すものとして,7世紀後半になってから出土点数の激増する木簡が挙げられる。その後,ⓓ日本独自の文字として,9世紀頃に平仮名と片仮名が生み出され,10世紀から11世紀にかけて定着していく。ただし,日本独自といっても,平仮名は漢字の草書体を基にし,片仮名は漢字の一部を使うなど,漢字に由来するものであった。公式の場においては,あくまでも漢字が正統なものと意識され続けた。
問3 Bさんは下線部ⓒの説明に当たって,次の二つの事例を紹介した。これらの事例を踏まえ,7世紀後半の日本における漢字文化の展開とその背景に関して述べた下の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 事例1
- 7世紀後半の木簡に,「移(ヤ)」,「里(ロ)」,「宜(ガ)」など,同時代の中国では既に使われなくなった漢字音の使用が見られる。
- 事例2
- 7世紀後半の木簡に見える,倉庫を意味する「椋」という字は,中国では樹木の名を指す字であった。高句麗では倉庫を「桴京」といい,「桴」の木偏と,「京」を合体させた字が「椋」とされた。この「椋」という字は百済・新羅でも倉庫の意味で用いられていた。
- 7世紀後半の日本には,古い時代の中国における漢字文化の影響は見られない。
- 7世紀後半の日本には,朝鮮諸国における漢字文化の影響が見られる。
- 留学から帰国した吉備真備らは,先進的な文化・文物をもたらした。
- 白村江の戦いの後,亡命貴族らが日本に逃れてきた。
問4 Bさんは下線部に関連して,「国風文化」について次のX・Yのような評価があると述べた。Xの根拠をa・b,Yの根拠をc・dから選ぶ場合,その組合せとして最も適当なものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
評価
- X 前代の「唐風」を重んじる文化に対し,日本独自の貴族文化が発達した。
- Y 「国風」と称されているが,中国文化の影響も見られる。
根拠
- 大学では,儒教や紀伝道の教育がなされた。
- 勅撰の漢詩集に代わって,勅撰の和歌集が編まれた。
- 貴族は,輸入された陶磁器などを唐物として愛用した。
- 貴族は,白木造・檜皮葺の邸宅に住み,畳を用いた。
問5 二人の発表を受けて,クラス全員で古代における文字使用の歴史について議論し,次の①~④のようなまとめをした。この①~④のうち,誤っているものを一つ選べ。
解説・コメント
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第3問
中世の都市と地方との関係について述べた次の文章を読み,下の問い(問1~4)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
院政が始まると,ⓐ南都・北嶺をはじめとする寺社や有力貴族は多くの荘園の領有を公認された。荘園領主は,使者を現地に派遣して年貢・公事の収納などを行うことで荘園現地と深く関わるようになった。一方,地方の有力者のなかには,京都をはじめとした都市にも拠点をもち,都市と地方を往来し,武士として活躍する者も多くいた。さらに,鎌倉幕府が成立すると,鎌倉も都市として充実していき,ⓑ都市と地方との往来はますます活発になっていった。
ⓒ室町時代に入ると,土一揆が近畿地方を中心に発生し,また嘉吉の乱以降は将軍の権威が大きく揺らいでいった。さらに畠山・斯波の両管領家に家督争いが起こり,次いで将軍足利義政の後継をめぐり争乱が拡大した。それによって京都が荒廃したため,地方へ下る公家や僧侶も多くなり,地方も積極的に彼らを受け入れた。そのため,ⓓ都市と地方との関係も変化していった。問1 下線部ⓐに関連して,紀伊国那賀郡神野真国荘の成立に当たって作成された史料と図(次ページ)について,下の問い(1)・(2)に答えよ。
(1)次の史料に関して述べた下の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料
紀伊国留守所(注1)が,那賀郡司に符す(注2)
このたび院庁下文のとおり,院の使者と共に荘園の境界を定めて牓示(注3)を打ち,山間部に神野真国荘を立券し(注4),紀伊国衙に報告すること。
康治二(1143)年二月十六日
(早稲田大学所蔵,大意)
(注1)留守所:国司が遙任の場合に,国衙に設置された行政の中心機関。
(注2)符す:上級の役所から下級の役所へ文書を下達すること。
(注3)牓示:領域を示すために作られた目印のこと。杭が打たれたり,大きな石が置かれたりした。
(注4)立券:ここでは牓示を打ち,文書を作成するなど,荘園認定の手続きを進めることを指す。
- X 史料は,院庁の命を受けて,紀伊国衙が那賀郡司に対して下した文書である。
- Y 史料では,那賀郡司に対し,院の使者とともに現地に赴き,荘園認定のための作業をするよう命じている。
(2)次の図を読み解く方法について述べた次ページの文X・Yと,その方法で分かることについて述べた文a~dとの組合せとして最も適当なものを,次ページの①~④のうちから一つ選べ。
- X 牓示が設置された場所を見つける。
- Y 牓示と牓示とを線でつないでみる。
- 牓示は,田や村の中心に設置されている。
- 牓示は,山の中(図の色地)や川沿いに設置されている。
- この荘園の領域が見えてくる。
- この荘園内の各村の境界が見えてくる。
問2 下線部ⓑに関連して,平安時代末から鎌倉時代の都市と地方との関係について述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問3 下線部ⓒに関連して,室町時代の一揆に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 山城の国一揆は,両派に分かれて争っていた畠山氏両軍を,この年退去させた
- 加賀の一向一揆は,この年守護富樫氏を滅ぼした。
- 正長の徳政一揆(土一揆)は,この年徳政を求めて,土倉・酒屋などを襲った。
問4 下線部ⓓに関連して,鎌倉時代から室町時代の都市と地方,及び地方間の交流に関して述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X この人物らが諸国を遍歴したことで,各地に連歌が広まり,地方文化に影響を与えた。
- Y 宋や元の影響を受けて,地方で製造された陶器の一つで,流通の発展によって各地に広まった。
- 西行
- 宗祇
- 赤絵
- 瀬戸焼
解説・コメント
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問題文正答率:50.00%
第4問
近世社会では,幕府や朝廷から,村や町に至るまで,様々な儀式や儀礼が行われていた。一見すると無味乾燥に思える儀式や儀礼も,実際には,社会を統合したり,秩序を作り出したりするために重要な意味を持っていた。これら近世社会の儀式や儀礼に関する下の問い(問1~4)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 16)
問1 江戸城に登城した大名は,本丸御殿の玄関を入ると,定められた部屋で待機した。この待機する部屋を殿席という。次ページの図は,江戸城本丸御殿の模式図と,殿席の説明である。この図に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 大名の殿席は,外様大名よりも譜代大名のほうが,奥に近い場所を与えられていた。
- Y 日米修好通商条約調印のときに大老をつとめた人物の家と,徳川斉昭の家とは,同じ殿席だった。
(注)空白部分には部屋などがあるが省略している。
問2 江戸城本丸御殿は,儀式や儀礼を行う舞台である。なかでも重要なのは,武家諸法度の発布である。3代将軍以降の武家諸法度は,江戸城で諸大名に伝達された。武家諸法度に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 幕府は,大船の建造禁止を解き,武家諸法度を書き改めた。
- 幕府は,武家諸法度の第一条の冒頭を,「文武弓馬の道」から「文武忠孝を励し」に書き改めた。
- 幕府は,武家諸法度で,大名に参勤交代を義務づけた。
問3 江戸幕府の様々な儀礼は政治行為であり,大名を対象とするだけではなく,対外的な儀礼も含まれている。江戸時代の対外関係について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問4 近代以降の祝日や祭日は,国家の行う儀式や儀礼と深く関わっている。しかし江戸時代の休日は,それとは大きく違っていた。次の史料1・2を読み,下の問い(1)・(2)に答えよ。
(1)史料1は,休日について定めた1814年の町法である。この史料1について述べた文として誤っているものを,下の文①~④のうちから一つ選べ。
史料1
一,年中定まり休日(注1)は格別,流行休日(注2)決して致すまじく候。よんどころなく休日致したき節は,町役人へ申し出で,御支配様(注3)へお願い申し,一同遊び申すべく候。まちまちに遊び日致すまじき事。
附けたり(注4),休日は,若輩者ども無益の光陰(注5)送り申すまじく,手習い・算(注6)など相励み申すべく候。
(「須坂町法取締規定書」長野県須坂市浦野茂八家文書)
- (注1)年中定まり休日:村や町があらかじめ定めておいた休日。
- (注2)流行休日:一時的に広まる臨時の休日。
- (注3)御支配様:領主のこと。ここでは須坂藩主のこと。
- (注4)附けたり:以下は付言であることを示す。
- (注5)光陰:時間のこと。
- (注6)算:そろばん,もしくは算術のこと。
(2)史料2は,1868年8月に出された布告である。この史料2に関して述べた下の文a~dについて,最も適当なものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
史料2
一,九月二十二日は,聖上(注1)御誕辰相当り候につき,毎年此の辰を以て,群臣に酺宴(注2)を賜い,天長節(注3)御執行相成り,天下の刑戮(注4)差し停められ候。偏えに衆庶と御慶福を共に遊ばさせられ候思し食しに候間,庶民に於いても,一同御嘉節(注5)を祝い奉り候様仰せ出され候事。
(『幕末御触書集成』第1巻)
- (注1)聖上:天皇のこと。
- (注2)酺宴:天皇が臣下のために開いた宴席。
- (注3)天長節:天皇の誕生日のこと。特にここでは,天皇の誕生日を祝うための儀式や儀礼のこと。
- (注4)刑戮:刑罰のこと。
- (注5)御嘉節:めでたい日。
- 史料2によれば,天長節には,刑罰の執行が停止された。
- 史料2によれば,天長節は,この年1回限りの行事とされた。
- 史料2の布告は,庶民に天長節を祝うことを促して,天皇の存在を意識させようとしたものだったと考えられる。
- 史料2の布告は,庶民に天長節を祝うことを禁じて,天皇の権威を高めようとしたものだったと考えられる。
解説・コメント
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問題文正答率:50.00%
第5問
女性解放運動の先駆者として知られる景山英子(後に福田英子)に関する次の文章を読み,下の問い(問1~4)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 12)
景山英子は,1865年に岡山藩のⓐ下級武士の家に生まれた。生活の苦しかった景山家では家計のために寺子屋を開いていた。英子も幼い頃から学問に励み,小学校卒業後は小学校や私塾の教師をつとめた。自由民権運動に参加するなか,岡山に遊説に来た岸田俊子の影響を受け,数え年20歳の時に上京した。しかし,アを企てた大阪事件に関与して,逮捕,投獄された。
出獄後には,1901年にⓑ角筈女子工芸学校を設立したり,1904年に自伝『妾の半生涯』を刊行したりした。その後,イの活動に参加することで社会主義に近づくと,1907年には雑誌『世界婦人』を創刊し,国際的な視野から「婦人解放」を訴えた。「発刊の辞」で英子は,「ⓒ現在社会の状態を見れば,ほとんど一切の事情は,みな婦人の天性を迫害し圧塞(注)するのであります。されば,勢いここに婦人自身の社会運動が起こらねばなりません」と述べている。この雑誌は激しい弾圧もあり2年半で廃刊となった。英子は1927年に死去した。
(注)圧塞:圧迫のこと。
問1 空欄アイに入る語句の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,幕末維新期の武士について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 下級武士出身のこの人物が藩政の主導権を握った薩摩藩は,幕府批判の姿勢を強め,長州藩との間で同盟を結んだ。
- Y 旧幕府軍の武士などを率いた榎本武揚が,この地で新政府軍に降伏した。
- 西郷隆盛
- 木戸孝允
- 新潟
- 箱館
問3 下線部ⓑの学校を新たに設立した理由について,英子は次の史料のように記している。この史料の内容及び時代背景に関して述べた次ページの文a~dについて,最も適当なものの組合せを,次ページの①~④のうちから一つ選べ。
史料
現時一般女学校の有様を見るに,その学科はいたずらに高尚に走り,そのいわゆる工芸科(注1)なるものも,また優美を旨とし(中略)実際生計の助けとなるものあらず,以て権門勢家の令閨(注2)となる者を養うべきも,中流以下の家政を取るの賢婦人を出すに足らず。(中略)妾(注3)らのひそかに憂慮措くあたわざる所以なり。
(『妾の半生涯』)
- (注1)工芸科:ここでは,主に刺繍や裁縫の技術を教える学科のこと。
- (注2)権門勢家の令閨:権力や勢力のある家の妻の尊称。令夫人。
- (注3)妾:女性の自称のへりくだった言い方。わらわ。
- 史料によれば,英子は新設の学校で,女性に優美な技術を教えたかったと考えられる。
- 史料によれば,英子は新設の学校で,女性に生計の助けになる技術を教えたかったと考えられる。
- この学校が設立された後で,教育勅語が出され忠君愛国の精神が強調された。
- この学校が設立された後で,義務教育の期間が4年から6年に延長された。
問4 下線部ⓒの文章が書かれた時期の社会に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 女性解放を唱える新婦人協会が活動していた。
- Y 女性が政治集会に参加することは禁止されていた。
解説・コメント
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問題文正答率:50.00%
第6問
Hさんの高校の授業では,「第二次世界大戦後の民主化政策」について,戦前からの流れやその後への影響を含めて発表することになった。Hさんたちの班は,農地改革をテーマに選び,図書館で文献を調べ,次の発表用スライド1~3を作成中である。このスライド1~3を読み,下の問い(問1~7)に答えよ。(配点 22)
スライド1
1.農地改革の歴史的背景(戦前期)
1―1 ⓐ寄生地主制の形成(明治期)
- 大地主は自ら耕作せず,農地を小作人に貸し付ける(地主経営)
→大地主は小作料収入を土地や株式などに投資
1―2 寄生地主制のア(1920年代~1930年代前半)
- 1920年代の慢性的な不況
→農産物価格の低下
- ⓑ日本農民組合の結成
→小作料や耕作権をめぐって,小作争議が活発化
1―3 まとめ
1920年代に小作人の権利意識が高まり,小作争議を通じて,小作人の地位向上はある程度実現した。これによって,明治期に形成された大地主と小作人との関係が,大正期以降に変化していったことが分かった。
問1 下線部ⓐに関連して,明治期の大地主と小作人に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 大地主は一般に,小作料を現金で受け取っていた。
- Y 小作人の中には,子どもたちを工場などへ働きに出す者がいた。
問2 下線部ⓑに関連して,1920年代に活動した組織として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問3 空欄アに入る語句X・Yと,その語句が入る理由a・bとの組合せとして最も適当なものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
語句
- X 発展
- Y 動揺
理由
- 小作料の引上げが実現した。
- 小作料の引下げを求める動きが広まった。
スライド2
2.農地改革の歴史的背景(戦時期)
2―1 総力戦と食糧増産
- 労働力や肥料の不足などにより食糧不足が深刻化
→総力戦遂行のため,食糧の安定供給が必要になる
2―2 農業統制の展開
- 小作料統制令の施行(1939年)…小作料の引上げを禁止する
- ⓒ米の供出制度の開始(1940年)…政府が耕作者から直接買い上げる
- 食糧管理法の制定(1942年)…公定価格以外の食糧取引を禁止する
- 農地審議会で自作農創設の促進を決定(1943年)
*これらの点から,戦時期ではイが採られたと考えられる
2―3 まとめ
戦時期には,政府が主要食糧の生産・流通・消費を管理した。また,自作農創設に向けた動きも一部でみられた。戦時期の食糧・農地に関する政策は,戦後の農地改革に引き継がれる部分もあったが,寄生地主制の強制的な解体を目指すものではなかった。なお,食糧管理制度は戦後も続いたが,その目的は変化していった。
問4 下線部ⓒに関連して,戦時下の物資の統制に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- X 砂糖・マッチなどの消費を制限する切符制が開始された。
- Y 国家総動員法にもとづき,価格等統制令が出された。
問5 空欄イに入る政策X・Yと,その政策の目的a・bとの組合せとして正しいものを,下の①~④のうちから一つ選べ。
政策
- X 小作人(耕作者)を優遇する政策
- Y 地主を優遇する政策
目的
- 寄生地主制を強化するため。
- 食糧の生産を奨励するため。
スライド3
3.農地改革の過程と実績
3―1 GHQの目標…軍国主義の温床の除去
- 寄生地主制の除去による安定した自作農経営の創出
3―2 農地改革の過程
- 政府主導の第一次農地改革案の決定(1945年)
- GHQの勧告にもとづく第二次農地改革の開始(1946年)
→国が公定価格で農地を買収し,小作人に売り渡す(1947~50年)
3―3 農地改革の実績
- 総農地に占める小作地面積の変化
45.9%(1945年11月) ⇒ 9.9%(1950年8月)
→農家の大部分が自作農になった
問6 スライド3を参考にしながら,農地改革の過程と実績に関して述べた文として誤っているものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問7 この学習のまとめとして,Hさんたちは戦後の農業の展開を整理している。その内容に関して述べた次の文a~dについて,正しいものの組合せを,下の①~④のうちから一つ選べ。
- 米の生産調整のため,減反政策が開始された。
- 米の輸入量を減らすため,減反政策が開始された。
- 農業の経営の改善を図るため,農業基本法が制定された。
- 自作農を創設するため,農業基本法が制定された。
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