大学入学共通テスト日本史A過去問 令和4年度本試験(解説なし)
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問題文正答率:33.33%
第1問
次の会話文は,高校生のマコトさんが祖母の家で曾祖母(池上東子)の遺品の整理を手伝った際に,曾祖母の父親(駒場公三)の履歴書と,曾祖母が持っていたラグビー大会のパンフレットを見つけ,祖母と交わしたものである。この会話文を読んで,後の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
- マコト
- 公三さんって人は,40年以上も陸軍にいて,測量をしていたんだね。履歴書に「外地」ってあるけど,どこを測量していたのかなあ。
- 祖 母
- ⓐ公三さんは東子さんが小学校に入った年に,満州やロシアを測量したみたい。第一次世界大戦が終わった頃ね。満州では軍人の身分を隠していたそうだよ。
- マコト
- 危険なこともしてたんだね。ⓑ敗戦後にアメリカ軍で仕事をしたというのは興味深いね。ところで東子さんは,いつ生まれて,何をしてたっけ?
- 祖 母
- 公三さんが陸軍で測量手をしていた時,ちょうど大正改元の年(1912年)に東子さんが生まれたの。東子さんは16歳で高等女学校を卒業したけれど,そのころの日本は,アようだね。ここにあるパンフレットは,就職した東子さんがイで働いていたころに観戦したラグビー大会のものみたい。その少し後に結婚してからは,ずっと専業主婦だったはずだよ。
- マコト
- 昔は家事が今よりも重労働だったんでしょ。
- 祖 母
- そう。でも,ⓒ戦後にいろんな電化製品が出て,家事が楽になったって東子さんは喜んでいたね。
- マコト
- 公三さんの生活の方はどうだったのかな。
- 祖 母
- 晩年の公三さんはよくテレビを見てたね。1970年に90歳で亡くなるまで,私も一緒によく見ていたの。
- マコト
- 公三さんが生きている間に,世の中は大きく変わったんだろうね。
問1 空欄アに入る,当時の社会的背景を表す文として最も適当なものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 空欄イウに入る語句の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問3 下線部ⓐに関して,次の史料X・Yは,駒場公三が従事した年の,満州とロシアでの測量に関するものである。この史料X・Yについて述べた文として正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 作業員は嫌疑を避くる為(中略)変名を用ひ表面軍衙(注1)との関係を絶ち純然たる一個人として領事館より護照(注2)其他必要なる免許証の下附を受くるものとす
- Y 測図作業は護衛兵の掩護の許に行動せざれば頗る危険なるを以て左の如き護衛兵員を要す(中略)上陸爾来(注3)第十二師団長の隷下(注4)に属す
(注1)軍衙:軍務を取り扱う役所。
(注2)爾来:以来。
(注3)護照:旅券,パスポート。
(注4)隷下:配下。
(X・Yともに『外邦測量沿革史 草稿』)
問4 下線部ⓑに関連して,戦後の日米関係に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- アメリカによる日本の防衛義務が明確化され,在日米軍の行動に関する事前協議制が定められた。
- 日本はアメリカの援助を受けるとともに,防衛力の強化を義務づけられた。
- 日本市場の閉鎖性を問題視したアメリカは,農産物輸入自由化を要求した。
問5 パンフレットにある優勝校に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 鞍山中学校がこの大会で優勝した1935年には,満州は日本の影響下に置かれていた。
- Y 京城師範学校は,朝鮮総督府と同じ都市にあった。
問6 下線部ⓒに関連して,次の表1は,戦後の耐久消費財の価格と世帯ごとの普及率,大卒男性の初任給をまとめたものである。この表1に基づいて戦後の生活について述べた文として正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
問7 マコトさんは,駒場公三の生きた期間に世の中が大きく変わったことに驚き,その生没時の社会の違いについて,次の表2にまとめた。この表2中の①~④について誤っているものを一つ選べ。
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第2問
アメリカ合衆国ハワイ州の高校と交流を持つ日本の高校の授業で,日本とハワイとの関係についての歴史を調べることになった。次の文章は,調べる課題や内容を設定する際のミキさんとカズさんとの会話文である。この文章を読み,後の問い(問1~4)に答えよ。(史料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 12)
- ミ キ
- ハワイは,19世紀初めから19世紀末まで,ハワイ王国という独立した国だったんだね。
- カ ズ
- 幕末に,江戸幕府とハワイ王国との間で,条約締結に向けた交渉が行われているよ。結局,条約締結前に幕府は崩壊したのだけど。
- ミ キ
- 幕末とはいえ,江戸時代にも日本とハワイとの間に交流があったんだね。
- カ ズ
- 幕末になるにつれて,ⓐ日本と海外諸国との交流も活発になっていくよね。江戸幕府は,1866年に日本人の海外渡航を解禁しているから,これを機に,日本の国際交流もさらに広がったのではないかな。
- ミ キ
- 海外渡航の解禁は,日本とハワイとの関係の歴史にも関わっていて,1868年に約150人の日本人がハワイに移民として渡っているよ。だけど,幕府が崩壊するタイミングだったこともあって,移民の契約のトラブルも生じ,明治新政府は対応に苦慮したんだって。
- カ ズ
- その後,ハワイ王国と日本とは,ⓑ1871年に条約を結んでいるね。この条約で,ハワイの人が日本人を労働者として雇うことができる,ということが定められているよ。ハワイ王国では,サトウキビ栽培が盛んで,労働者として日本人移民を求めていたようだよ。
- ミ キ
- だけど,ハワイへの移民はしばらく行われず,移民事業が本格化するのは,1885年のことのようだね。ⓒ1885年からの約10年間,ハワイ政府と明治政府との合意で,約3万人の日本人がハワイに渡航したんだって。
- カ ズ
- なぜ,そんなに多くの日本人がハワイに渡ったのだろう。このことについて,もっと調べてみようよ。
問1 下線部ⓐに関して,幕末における日本と海外諸国との交流について述べた次の文X・Yと,それに該当する語句a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 江戸幕府は,オランダ人の教官を招いて,この地で海軍伝習を始めた。
- Y 幕末に来日したアメリカ人宣教師のこの人物は,和英辞典を作成するなど,日本の英語教育にも影響を与えた。
- 長崎
- 浦賀
- ヘボン
- ベルツ
問2 下線部ⓑについて,次の史料1は日本とハワイ王国との修好通商条約の条文の一部である。この史料1に関して述べた後の文a~dについて,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料1
ここに条約を結べる両国の臣民は,他国の臣民と交易するを許せる総ての場所,諸港,及び河々に,其の船舶及び荷物を以て自由安全に来り得べし。故に,両国の臣民,右諸港諸地に止り,且つ住居を占め,家屋土蔵を借用し,又これを領する事妨げなく,諸種の産物,製造物,商売の法令に違背せざる商物を貿易し,他国の臣民に已に許せし,或いは此の後許さんとする別段の免許は,何れの廉にても,他国へ一般に許容するものは両国の臣民にも同様推及(注)すべし。
(『大日本外交文書』)
(注)推及:おし及ぼすこと。
- この条文では,両国の国民が相手国の国内を場所の制限なく往来したり,滞在・居住・商売したりすることができる,ということが定められている。
- この条文では,通商に関して他国の国民に認めたことを,日本とハワイ両国の国民にも適用する,ということが定められている。
- この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規には,台湾での琉球漂流民殺害事件の賠償金の規定が含まれた。
- この条約と同じ年に結ばれた日清修好条規は,相互の領事裁判権を認めるなど,対等な条約内容であった。
問3 下線部ⓒに関連して,1885年から1894年までの10年の間に生じた出来事に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 日本と清国との条約により,両国の朝鮮からの撤兵が定められた。
- 日本とイギリスとの間で,領事裁判権の撤廃などを定めた条約が調印された。
- 朝鮮の地方官が大豆などの輸出を禁じたことに対し,日本政府が朝鮮に損害賠償を求めた。
問4 ミキさんとカズさんは,なぜ1885年から多くの日本人がハワイに渡航したのか,その理由や背景について興味を持ち,それに関する史料2・3を収集した。史料2・3の内容に関して述べた後の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料2 ハワイ領事館で書記官を務めた藤田敏郎の回顧録
(当時の外務卿は)我が農民を送り,欧米式農業法を実習し,秩序的労働法を覚へ,且つ相応の貯蓄を携へ帰国せしめ,(中略)十数年の後には我が農村の労働方法,大いに改良せらるべしと思惟し(中略),長防二州(注1)ならびに広島熊本県下において出稼人を募集せしめらる。
(『海外在勤四半世紀の回顧』)
(注1)長防二州:現在の山口県のこと。
史料3 山口県によるハワイへの海外渡航者の分析
労働出稼者の増加するは(中略)内国に於ては労働者賃金の薄利なるのみならず,世上一般事業の不振なるに従ひ,労働者就業の困難に迫らるるに依るもの,蓋し(注2)多きに在らん。
(山口県「県政事務功程」)
(注2)蓋し:思うに。
- X 史料2によると,当時の外務卿はハワイに欧米式農業の技術を伝え,移民たちがその対価を得て帰国することを期待していたと考えられる。
- Y 史料3によると,ハワイに渡航した人々の中には,日本での賃金の低さや不況により生活苦に陥っていた人が少なくなかったと考えられる。
解説・コメント
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第3問
たかしさんとじゅんさんは,明治後期から昭和初期にかけての社会と生活をテーマにして調べ学習をしている。二人の会話文A・Bを読んで,後の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
A- たかし
- 授業では,日清戦争後に産業革命が達成されると,男性労働者を中心に,ⓐ労働組合が結成されたり,社会主義運動が現れてくると学んだね。
- じゅん
- 私は,労働者の生活環境に関心を持ったんだ。横山源之助は,ⓑ「貧街十五年間の移動」という文章で,日清戦争前後と1911年の東京の下層社会を比較しているよ。
- たかし
- 私は,労働者の家計に注目してみたよ。研究文献を調べたら,ⓒ工場労働者と,「細民」と呼ばれた貧しい都市住民の家計についてまとめることができたよ。日露戦争後から1920年代にかけて,東京の下層社会は大きく変化したようだね。
問1 下線部ⓐに関連して,労働運動・社会主義運動に関して述べた次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 友愛会が,鈴木文治らによって結成された。
- 最初のメーデーが,開催された。
- 社会民主党が,幸徳秋水らによって結成された。
問2 都合により省略。
問3 下線部ⓒに関連して,工場労働者と「細民」の家計をまとめた表1・2に関して,その内容と要因について述べた文章として最も適当なものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- じゅん
- 第一次世界大戦後,特に関東大震災後,都市化が加速的に進み,ⓓ自由主義・民主主義的な風潮や都市文化が広まって,大都市を中心に人々の生活は大きく変化した,と授業で学んだね。
- たかし
- うん。ⓔ俸給生活者(サラリーマン)らの「新中間層」が増加し,都市文化の主な担い手になった。文化の大衆化が始まったんだね。
- じゅん
- でもさ,農村から見たら都市文化はどのように見えるのかなと思って,ⓕある農民組合の創設趣意書を読んでみたんだ。そしたら,都会は「日に贅沢に赴く」に対して,農村は「貧苦に咽ぶ」という文言があったよ。都市に対する恨み,「反都市主義」が見られるね。ただ,趣意書には,農村の「自治」を強調していて,デモクラシー思想や大衆文化の影響も確かに見られるよ。
- たかし
- そうだね,ⓖ明治後期から昭和初期にかけての社会について,まとめてみるよ。
問4 下線部ⓓに関連して,1920年代後半の内閣X・Yと,その政策について述べた文a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 第1次加藤高明内閣
- Y 田中義一内閣
- 社会主義国であるソ連との間に国交を樹立した。
- 労働者の団体交渉権が法律に記され,同時に治安維持法も公布された。
- 都市へ移住した地主の貸付地を強制的に買い上げ,農家へ安く売った。
- 治安維持法が改正され,死刑・無期刑が罰則に加わった。
問5 下線部ⓔに関連して,1920年代から1930年代の生活・文化に関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 大都市の郊外に,和洋折衷の文化住宅が建てられた。
- Y 大衆娯楽雑誌である『国民之友』が創刊された。
問6 下線部ⓕに関連して,じゅんさんは,1918年から1941年にかけての労働組合数・小作組合数,労働争議件数・小作争議件数の推移を調べて次のグラフを作った。全体の推移を示したメモを読み,このグラフのa~dに該当するものの正しい組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
メモ
- 労働組合数は大戦景気を受けて増え,1935年がピークであった。
- 小作組合数は1933年にピークをむかえた。
- 労働争議件数は不況で賃金引下げや倒産,人員整理があったため,1920年代後半から上昇し,1931年以降,減少傾向を示した。
- 小作争議件数は主に土地の貸借をめぐって1930年代前半に急増した。
問7 下線部ⓖに関して述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
解説・コメント
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第4問
日本において鉄道が開通して,2022年で150年を迎える。日本における鉄道の歴史とその役割について述べた次の文章A・Bを読み,後の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
A明治初期,政府によって産業育成が図られる一環として,ⓐ1872年,新橋―横浜間に鉄道が開通した。後に大阪―神戸間も開通するなど,当初,鉄道は大都市と開港した港を結ぶ路線が敷設された。鉄道は,気候に大きく左右されず,時間が正確なため,各地の産物を都市や港に輸送する手段として用いられ地域の産業発展に寄与した。例えば,横浜と鉄道で結ばれた群馬県や長野県からは,開港以来の主要輸出品であるアが輸送された。また,九州では,産業革命のエネルギー源であるイが鉄道により積出し港まで輸送された。
ⓑ産業発展に伴い,旅客輸送と貨物輸送はいずれも鉄道を中心に拡大するとともに,鉄道の駅を中心とした周辺地域との貨物輸送や都市内の旅客・貨物輸送が盛んになった。貨物輸送では,駅からの輸送において,荷車や馬車などの利用が増加する一方,河川を利用した舟運はその地位を低下させた。旅客輸送では,第一次世界大戦後に,市電やバス,地下鉄などの都市内交通が発展した。また,国内を中心に展開した鉄道網は,ⓒ20世紀以降の日本の対外関係の下,帝国内の旅客・貨物輸送の双方において重要な役割を持った。問1 空欄アイに入る語句の組合せとして正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問2 下線部ⓐに関連して,次の史料は,1872年に出された改暦を定めた詔書と同年に開通した新橋―横浜間の9月の時刻表の一部である。この史料に関して述べた後の文a~dについて,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 史料のような分刻みの時刻表は,太陽暦が採用される前から作られていた。
- 史料の時刻表が出された当時は,太陽暦が採用されていた。
- 動力源である電気の供給が安定しなかったため,この鉄道の定時での運行は困難を極めた。
- 乗客に対して規律ある行動を求めることで,定時での運行を厳守しようとしていた。
問3 下線部ⓑに関連して,次の表1は,1885年から1930年までの鉄道(国鉄・民営鉄道)の旅客輸送と営業距離の推移を表したものである。表1に関して述べた文として誤っているものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
問4 下線部ⓒに関連して,20世紀以降の日本の対外関係のなかで,鉄道に関わる諸政策・事件を説明した次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 奉天郊外において,張作霖が乗っていた列車が爆破された。
- 南満州鉄道株式会社が設立された。
- 段祺瑞政権に対して,鉄道建設にも関わる巨額の経済借款を与えた。
B
ⓓ敗戦後も,鉄道は貨物輸送や旅客輸送において重要な交通機関としての地位にあり,人々の移動に欠かせない交通機関であった。ただ,1960年代以降,乗用車やトラックが普及するとともに,国道や高速道路網の整備によって,ⓔ自動車が貨物輸送や旅客輸送において中心的な役割を担うようになった。
鉄道は,貨物輸送から,都市間や都市内の旅客輸送に注力するようになった。1964年に東海道新幹線が開通し,その後,新幹線網は各地に広がった。一方で,過疎に悩む農村や産業が衰退した地域で赤字路線の存在が問題となり,国鉄の経営にも大きな影響を与えた。第3セクター(注)への転換や路線の廃止が実施されるなど,都市部での鉄道網の展開とは対照的だった。そのようななかで,ⓕ国鉄の民営化が行われ,現在のJR7社の体制に転換した。
鉄道は日本の産業発展において重要な役割を果たすだけでなく,私たちの生活に密接に関わっている。
(注)第3セクター:国や地方自治体と民間企業の共同出資により設立された事業体。
問5 下線部ⓓに関連して,戦後10年(1945~55年)の間に撮影された写真X・Yと,それに関して述べた文a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- 写真Xは,深刻な食料不足の影響で,都市から農村へ買い出しに行く人が多くなったことを示している。
- 写真Xは,恐慌の影響で,都市から農村に戻る人が多くなったことを示している。
- 写真Yは,平均して前年比10%ほどの伸び率で,日本経済が急成長していた時期の事件を示している。
- 写真Yは,企業の倒産や失業者の増大が社会不安となっていた時期の事件を示している。
問6 下線部ⓔに関連して,次の表2は,高度経済成長期以降の鉄道・自動車の旅客輸送量と乗用車の保有台数,高速道路延長,新幹線・高速道路の開通年を表したものである。表2について述べた文として正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
問7 下線部ⓕに関して述べた次の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 「戦後政治の総決算」を掲げた改革で,電電公社も民営化された。
- Y 国鉄の民営化は,小泉純一郎が首相の時に行われた。
解説・コメント
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問題文正答率:33.33%
第5問
高校生のレンさんとトモさんは,授業の課題で昭和期の政党政治と社会について調べることになった。二人の会話文A・Bを読み,後の問い(問1~7)に答えよ。(資料は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)(配点 22)
A- レ ン
- 昭和戦前期の政党政治と社会に注目して,日本が大きな戦争に向かってしまった過程を考えてみたいな。
- ト モ
- 1924年6月から1932年5月まで政党内閣が続いて,「憲政の常道」と言われたね。ⓐこの時期に,男性の普通選挙の制度が整えられたよね。
- レ ン
- そうだね。ちなみに,ⓑ最初に普通選挙制度で行われた第16回の衆議院議員総選挙(以下,総選挙)では,二大政党だけでなく,労働者や農民たちが支持した無産政党の立候補者も当選したね。既成政党に不満を持つ人々にとって,貴重な意見の代弁者だったといえそうだね。
- ト モ
- 既成政党は貧困・失業への対策を掲げていたし,実際に実行されていたね。でも,昭和初期の社会状況に対して,経済政策などで国民の期待に応えきれず,汚職などもあって信頼を失ったんだよね。
- レ ン
- そして直接的には五・一五事件によって政党内閣は終わってしまったんだ。
- ト モ
- この事件は,不況に対する政党政治の対応への不信も一つの理由とされていたみたいだね。そういった状況を背景に,青年将校に対する様々な減刑運動も起きていたようだよ。
- レ ン
- へえ。どんな感じだったんだろう。後でⓒ当時の新聞記事を見てみよう。
- ト モ
- それはいいね。政党内閣の終焉のあと,1930年代には,ⓓ学問や思想への弾圧も次々に起きていたね。帝国議会を舞台にした事件もあったよ。
- レ ン
- そうだね。政党不信に対して,軍部や右翼など色々な人たちの思惑と結果がつながってしまった側面も無視できないね。
問1 下線部ⓐに関連して,近代日本の選挙制度について述べた次の文X・Yと,それを定めた時の首相a~dとの組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 大政党に有利な小選挙区制が導入された。
- Y 直接国税10円以上を納める25歳以上の男性に選挙権が認められた。
- 西園寺公望
- 原敬
- 山県有朋
- 黒田清隆
問2 下線部ⓑに関連して,二人は,第17,18回総選挙の結果を次の表にまとめた。無産政党の動向に関連して述べた後の文X・Yについて,その正誤の組合せとして正しいものを,後の①~④のうちから一つ選べ。
- X 第16回総選挙で無産政党から当選者が複数人出た後,日本共産党員に対する一斉検挙が行われた。
- Y 第17回と第18回の総選挙では,無産政党から当選者は出なかった。
問3 下線部ⓒに関連して,二人は新聞記事を調べ,五・一五事件の減刑運動に関する次の史料1・2をみつけた。五・一五事件とこれらの史料について述べたトモさんの発言a~dのうち,正しいものの組合せを,後の①~④のうちから一つ選べ。
史料1
(前略)その他全国各地の愛国思想団体によつて猛然減刑請願運動が起され,なかには地方民より署名調印を取りまとめつつあるのに,内務省警保局では事件の性質上成行きを重視し,三日重要府県警察部に対して慎重なる内偵査察を厳命した。
(『読売新聞』1932年8月4日)
史料2
歴史的な陸軍の判決を前にして全国的に減刑嘆願の運動が更に炎をあげてゐるが,(中略)石光真臣中将夫人の鶴子さんと令嬢富喜子さん(中略)等東京の将校婦人を中心の減刑運動が突風的に起され,この母子が十五日一日だけで五百名の署名を集め,(中略)十六日午後荒木陸相の手許に提出した。
(『東京朝日新聞』1933年9月17日)
- 史料によると,減刑嘆願は愛国思想団体などによって行われ,全国各地で展開されたことが分かるね。
- 史料によると,減刑嘆願は全国各地で展開されたけれど,その動きは三か月で終わっており,事件への関心は短期的なものであったようだね。
- この事件では,高橋是清大蔵大臣が殺害されたよね。
- この事件では,首相官邸で犬養毅が殺害されたよね。
問4 下線部ⓓに関連して,学問や思想の弾圧に関して述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
- ト モ
- 政党内閣が終焉した後も,政党はしばらく存続して影響力はあったし,戦時中にも政党出身の議員もいなくなったわけではなかったんだよね。
- レ ン
- 無産政党は分裂して,一部は戦争協力の方向へ転換してしまったけどね。
- ト モ
- うん。戦時中の政治については,その時期に首相をつとめたⓔ近衛文麿が圧倒的な国民的人気を集めていたね。近衛の存在は,国民の期待の象徴だったのかもしれないね。
- レ ン
- そうだね。ⓕ1940年代,国民は長引く戦争の中で,どういう状況に置かれていたんだろうなあ。当時は必ずしも本当のことが報道されていなかったから,そういった点も含めて考えないといけないね。
- ト モ
- ここまでをまとめると,昭和戦前期は政党政治への期待と不満がともに高まっていたんだね。軍部が主導した政党批判や対外戦争が,そうした不満のはけぐちになったりして,結果的には人々の権利や自由が奪われてしまった時代といえそうだね。
- レ ン
- ⓖ戦後の政党と政治は,こうした経験も踏まえて展開されていったんだね。現在にも多くの教訓が得られそうだなあ。
問5 下線部ⓔに関連して,第1次~第3次近衛文麿内閣の動向を記した次の文Ⅰ~Ⅲについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,後の①~⑥のうちから一つ選べ。
- 近衛首相は,日米交渉の打ち切りと開戦を主張する東条英機陸軍大臣と激しく対立した。
- 国家主義を唱え,節約・貯蓄など国民の戦争協力を促す国民精神総動員運動を開始した。
- 全国民の戦争協力への動員を目指す新体制運動を展開し,大政翼賛会が成立した。
問6 下線部ⓕについて,二人は1940年から敗戦までの状況を調査することにした。調査する史料として適当でないものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
問7 下線部ⓖに関連して,二人は,敗戦後初の総選挙における政党政治について調べ,戦前からの変化を考えることにした。その内容について述べた文として正しいものを,次の①~④のうちから一つ選べ。
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